【雑談】小説を読んでいる時の脳内想像の違いについて
こんにちは。特に何もない家の階段でコケて身体中打撲まみれになった私です。ここ二日くらいは風邪もひいてずっと寝てたのでここ一週間くらい動けないでいました。弱い。
さて今回は小説の読み方について。
私は幼い頃から結構な量の小説を読んできました。基本はライトノベルですが、一般小説だったり児童文学だったり色々。少なくとも同年代ではトップクラスに読んできた自負がありますが、そんな自慢にならないことは置いておきます。
特に語るものでもないしと思い、読書の感想を他人と語るようなことは全くと言っていいほどしてこなかったので、私には読書仲間みたいなものが全くいませんでした。そもそも探そうとしてなかったので当然なんですが。
そんな悲しい話しもさておき、インターネットで小説を読む人の話しが少しづつ入ってくるにつれて自分の小説の読み方が周りと全然違うことに気づきました。
一般的に小説などの物語を活字媒体で読むときは大体の人が頭の中にその風景を思い浮かべて話を進めていくと思います。しかし私の場合、風景などは全く思い浮かばず、すべて言葉の意味そのままで受け取ってそれが滞りなく流れていくのを楽しんでいるという感じでしょうか。
例を出しましょう。
残月の光をたよりに林中の草地を通って行った時、果して一匹の
猛虎 が叢 の中から躍り出た。虎は、あわや袁に躍りかかるかと見えたが、忽 ち身を飜 して、元の叢に隠れた。叢の中から人間の声で「あぶないところだった」と繰返し呟 くのが聞えた。その声に袁は聞き憶 えがあった。驚懼 の中にも、彼は咄嗟 に思いあたって、叫んだ。「その声は、我が友、李徴子ではないか?」
これはかの有名な山月記の冒頭から切り取った一文ですが、大体の人には月明かりの闇夜の中、男が虎に対して会話を試みているシーンが程度の差はあれ、ぼんやりと浮かんでいるのではないでしょうか。
私の場合は文中の言葉をそのまま意味として受け取って脳内での映像化はせず、意味だけが並んで進んでいきます。
多分なのですが、普通、脳内で活字を映像化する際の工程として
1.文章のまとまりの意味を把握、映像化への仮組みをする
2.材料を元に想像し、文章と相互に確認し合い更新する。
という工程で読書してると思うんです。その辺の解像度の差はあれど、この工程以外で読書、とりわけ物語を読んでいる人はあまりいないでしょう。
私の場合、いつからかはわかりませんが、早く続きが知りたいと思う余り、映像化の仮組みをした段階で、もう意味は分かっているのだからと映像化を飛ばして次に進むことが当たり前になっているという感じです。論旨はきっちり把握しているものの、細部までは見ていないという。
これ、最近になって気づいたんですが論文の査読読みと似ています。論旨を把握し流れとしておかしな部分がないか確認しつつ、気にならない限り細部を見ない。
なので評価軸としてはその作品が物語として破綻がなく、面白かったかどうかという読み方になります。アニメや漫画、音楽なんかもこの評価軸になってます。一つ一つをそうやって見るので作者で推すみたいなことがない。作品に思い入れも少ないので中身は語れても作品への愛は語れません。
物語という共感と創造の分野でこういう読み方をしているのはごく少数でしょう。そして少数の人はそういうことを知らずに生涯を終える人が大半でしょう。こんなことは学校では教えてくれないですからね。
インターネットのオタクと呼ばれる人たちはみんな作品やキャラクターへの愛を盛んに叫んでいて、それを共有することを楽しんでいます。私も読書が好きというと好きな作家は? と聞かれたことが何度かありますが、そのたびにうーんとなってしまいます。
いまいち”オタク”という仕草にも乗り切れない割にそういう文化への興味は高かったのでなんでなんだろうなぁと今までぼんやり考えてきましたが、この辺りの答えがこういう物語への接し方に繋がってくるのは中々面白いなぁと思います。
ちなみに最近、きちんと想像して読んでみようと練習がてらラノベをきちんと工程を踏んで読みだしたのですが、情報量がすごく増えて作品の面白さが増した代わりにめちゃくちゃ読むのが遅い上に疲れました。そりゃあこの読み方で年間300冊とかはなかなか厳しいです。それでも楽しいことは間違いないので習得しておいて間違いないものですね。汎用的な人類スキルの取得率の低さに日々びっくりするばかりです。
とまあ今日はここまで。ではまた。